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About Me
Storyteller 

 「お母さんの人生は正解だったかな」

 「正解も何も素晴らしい人生だよ」
 
 母が亡くなる2週間前の母と僕の会話だ。母は膵臓がんで1年の闘病生活を経て息を引き取った。母の人生は、人のため・家族のために生きた人生だった。
彼女は人生の振り返り、そして迷っていた。僕はそんな母の人生を心から称えた。本当に素晴らしい人生だよ。

 母は5人兄妹の4番目で、家計を支えるために中学卒業と同時に看護学校へ行き看護師資格を取得。看護学校では成績はトップクラスだった。

 看護師として病院で働くようになり入院してきた父と出会った。それから結婚に到るのだが、病気しがちだった父を支え続けた。

ーーー当時の父と友人の会話ーーー
父「宝くじ当たらんかなー」
父の友人「お前はもう当たらんよ」「◯◯さん(母)と結婚した事で全ての運を使い果たしとる」
 
 
 母の病気が判明する前、僕は家族6人を石垣島旅行へ連れて行った。父と母の新婚旅行の場所は石垣島。2人にとっては40年ぶりの石垣島だった。親孝行らしい親孝行をしていなかったので喜ぶ2人を見れて本当に嬉しかった。
 「これからは毎年皆んなで旅行に行きたいね」と話していた。
楽しい石垣旅行から帰ってきて、母が体の不調を訴えた。食欲不振と背中の痛みだ。
 
                    【余命半年】
 
 医師の診断は、ステージ4の手術不能膵臓がん。(膵臓は「沈黙の臓器」と呼ばれていて、自覚症状が出にくく発見されたときは末期の可能性が高い。母は人間ドッグにも行って検査もしていたが異常なしと診断されていた。)
家族は皆んな号泣した。

 しかし、母だけは違った。腫瘍が大きくなっていて食道の妨げになっていて食べ戻していた彼女は、涙ひとつ流さずこう言った
「最後に家族で食事がしたい」
若い頃から自分の信念を持ち堂々と生きてきた、母の「真の強さ」を垣間見た。そして涙が溢れた。
 
 闘病中も自分のことではなく家族のことを第一に考えた。優しさ溢れるひまわりの様な母。

「俺たちのことは気にしなくていいから自分の事を考えてよ。もっとわがまま言っていいよ」僕は言った。

 母は優しく微笑むだけだった。

 僕は栄養学や料理を勉強していたため、母の食事をよく作っていた。死期が近づいてきて、高価なフライパンと鍋が届いた。母がネットで購入したらしい。フライパンも鍋も家にはたくさんあるのになぜこのタイミングで。初めは疑問に思った。

 父は料理の「り」の字も知らない。母は自分がいなくなった後の父のことを一番心配していた。
直接言ってはいないが「私が亡くなった後もお父さんに料理を作って欲しい」という母の想いだと僕は感じた。

 亡くなる1週間前。家族皆んなで徹夜で看病していた。

 「おかあさんは、しあわせ」

 話すこともままならない状態になっていた彼女は必死に言葉を発してくれた。その言葉が母の人生の答えだ。
 
 人生に正解、不正解はありません。あるのは十人十色の物語。それは全て尊重すべき、あなただけのたった一つの物語です。100人居たら100通りの「生き方」があります。裕福な人もいればそうではない人もいます。健康な人もいれば母の様に病気になった人もいます。起業する人もいれば、会社に勤めて働く人もいます。どちらの人生が幸せだとか不幸だとか、正解だとか不正解だとかその様な概念はありません。
 

 【一人一人が自分らしく輝ける世界を創る】


 僕が映像作品を創る上で大事にしていきたい事です。

 そして、物語を残し、伝えるお手伝いをしたい。
 母が僕に教えてくれた道標です。

 また、母の生前「病気が完治したら2人で講演会をしようね」と話していた。今の僕に講演会なんておこがましい事は出来ないが、経験したことや悩んだ事等、ほんの少しを伝える事はできる。
 
 それが膵臓がんの早期発見や闘っている方々やその家族のほんの少しの力になればと思う。
そして、大前提として自分が大いに楽しむこと。妻や子は勿論のこと僕に関わってくれている方々と一緒に人生を楽しんでいきたい。
 
 第二の人生スタート。齢33歳。挑戦は何歳からでも遅くない。やってやる。
 
 後から聞いた話だが、母が看護師になった当時に実家に贈った洗濯機があるという。
当時から40年以上間経った今でも力強く可動している。
小さい汚れ(事は)は気にせず、いろんな服(家族)をまとめて綺麗(元気)にして送り出してくれる。

 まるで母のように。

 お母さんありがとう。          

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